私は「タオイズム」(道教)について興味があり、時々調べたりしています。タオイズムはとてもとらえどころが無く難しい哲学で、まだ全然理解できていないので、自分がタオイストであるとは全然言えず、タオイストを目指しているといった方が良い程度です。
タオイズムは、自然のままに生きることや、物事をあるがままに受け入れることを大切にします。一方、アート業界では、自己表現やマーケティングが重要な役割を果たしていて、SNSの投稿をちょっと盛ったりするのは全然普通な感じです。
そして私は、この相反する2つの概念が共存する事は可能なのか?つまり、アーティストでありタオイストでもあるという事は果たして可能なのか?という変な疑問を持つようになり、ここ数カ月密かに考えていました。
そもそも「無為自然」とは?
タオイズムの中心には「無為自然」という考え方があります。これは、ある事柄に対して鍛錬に鍛錬を重ねた結果、技術が体に染み込み、意識せずとも自然に体が動く境地の事を言います。これを初めて知ったとき、私は「無為自然って何もしないでのんびり過ごす事じゃなかったんだ!」と思ってビックリしました。
大分前に「クマのプーさんの哲学」みたいな本が流行ったことがあって、のんびり生きてるクマのプーさんはタオイストの達人、みたいな内容だった気がするので、「無為自然」に対して私と似たようなイメージを持っていた人もいると思います。でも、クマのプーさんは、ハチミツを採る事に対してはものすごいやる気を発揮します。
このクマのプーさんの好きな事にだけ頑張る姿勢というのが大事で、タオイズムでは、自分の好きな事・得意な事に対してのみ鍛錬を重ねることを推奨しています。苦手な事でもコツコツ頑張ればきっと出来るようになる、みたいな考え方とは一線を画していて、自分の得意な事を頑張って「無為自然」の境地に達した方が良いよね、という考え方がタオイズムの良い所なのです。
アートとタオイズムの接点
アーティストにとっての「無為自然」とは、作品を大量に作った結果、直感に従い、自然な形で作品を生み出す事が出来る状態に達する事ではないかと思います。過度に自己表現をしようとするのではなく、作品が自然に生まれるように身を委ねることで、研ぎ澄まされた作品が生まれるようになるという事でしょう。
しかし、そこまで達するのには長い鍛錬が必要で、その間は目先の結果や周りの声にとらわれることなく、真摯に作品を作り続ける必要があり、本当に好きでなければ続けられないです。タオイズムが好きな事を頑張る事を推奨しているのは、単純に「好きでなければ長続きしないよね?」という非常にシンプルな考え方から来ているのだと思います。
自然体のマーケティング
現代のアーティストは、作品を世に広めるためにマーケティングやブランディングを無視することはできません。でも、基本的にタオイストとは、出世欲が無くて隠遁生活しちゃう人達みたいなイメージがあり、マーケティングとは無縁な感じがします。敢えて、マーケティングをタオイズムの精神と結びつけるとしたら、その鍵は「自然体である事」と「誠実さ」なのではないかと思います。自分を飾らず、ありのままの自分を伝えることで、自然体での自己表現が可能になります。この考え方は、SNSでの発信に疲れている人にもおすすめなのかな?と思います。無理に自己を押し出すのではなく、自然に正直に発信することで、共感してくれる人もいるでしょうし、変なプレッシャーが無くなってやり易くなると思います。
結局タオイズムとアーティストは共存するのか?
タオイズムとアーティストが共存できるのか、まだ全然分かりません。続けてみたら、晩年の私が死ぬ直前とかに共存できる境地まで行けるかもしれません。
私の作品制作過程での糸を巻くという行為では、何も考えなくても勝手に手が動くので、その部分では「無為自然」に達していると言えます。その他の部分ではまだまだです。
マーケティングについては、私は基本的に目立つのは嫌いで、人前に出るのも好きではありません。でも、自然体であることを意識しながらやれば、あまりプレッシャーを感じずに色々発信できるような気もします。
ただ、自然体で、と言ってもあまりネガティブな所は見せてはいけないと思います。アーティストは日々の暮らしに色どりを添える夢のある仕事だからです。
私がタオイズムが好きなのは、ストレスが溜まらないようにする考え方を推奨していて、何かを強制するような押しつけがましい所が無い点です。
ストレスが溜まらないように生きる、という意味でも、タオイズムであったり、色々な哲学について知る事は有効だと思います。
次は、最近読んだ本「江南の庭」について、庭造りと隠遁思想の関連について書きます。