母の死とひまわりの花

母の死とひまわりの花 母の死, 死生観 Hidemi Shimura

先週母が急逝し、昨日葬儀を無事済ませました。
急逝したと言っても、母はもう84歳で5年ほど前から心臓が悪く、その頃からゆっくりと死に向かっていたのだと思う。
本人もこれ以上の長生きを望んでいなかったという事もあり、悲しいと同時に最期に苦しまなくて済んでほっとしたというのもあります。

実際のところ、一昨年猫のネネコさんが病気で亡くなった時の方が悲しく、人としてどうなんだ?とは思うのです。
しかし、母自身も祖母が亡くなった時より愛猫のとらぞうちゃんが亡くなった時の方がずっと悲しんでいたので、案外そんなものなのかも知れません。
母もとらぞうちゃんがいなくなってからずっとペットロスだったので、ペットロスな親子なのでした。

私が死というものをなんとなく認識したのは3歳くらいの時だったと思うのですが、はっきりと死とはこういうものかと悟ったのは8歳の時。
小学校では、1年生で朝顔、2年生でひまわり、3年生でへちま、等色々育てますが、2年生だった私は学校の畑でひまわりを育てていました。
夏休み中の8月のある日に台風が来たので、私は次の日ひまわりの様子を見に一人で畑に行ったのでした。

その時、ひまわりの花の根元の茎を軽く触ったらぽきっと折れてしまい、「折っちゃった!どうしよう!」とパニックになった私は、その辺にあった紐で折れた茎を竹の支柱に無理矢理縛り付けて固定し、家に帰りました。

夏休みが終わった9月のある日、授業中にみんなでひまわりの様子を見に行きましょうという事に。
「まずい!わたしのひまわりだけ枯れちゃってるに違いない!」と思った私は、ものすごくドキドキしながら、しかし表面上は平静を装いつつ先生や他の生徒たちと一緒に畑に行きました。

畑に着いた私が見たのは、全てのひまわりが枯れて茶色くなり、花だった部分にひまわりの種を付けている風景でした。

そして、私は瞬時に、人もひまわりも同じでいつかは終わりが来るという事、それが早く来ても遅く来ても、結局最後はみな同じように終わりを迎えるという事を悟ったのでした。

8歳でそのような事を悟ってしまった私は、生きる事の意味が分からなくなってしまい、どこか冷めた感じの子になってしまったのでした。
思えば、作品を作るという行為自体、人生の意味を考えるという行為であり、私が現代美術作家になったのは自然な流れだったのかもしれません。

上海に住んでいた私が日本に帰ってきたのには、いくつか理由がありましたが、母に帰って来いと何度も言われたのが主な理由でもありました。
母を無事看取るという役目を終え、今後自分がどこでどのように過ごしていくべきなのかを喪に服しながらじっくり考えたいと思います。

次の展示は春の予定ですので、冬の間にじっくりと作品を作ることが出来ます。